『楓図』『桜図』〜長谷川等伯、息子久蔵との最初で最後の大仕事〜
上、等伯筆『楓図』。下、久蔵筆『桜図』。
1952(文禄元)年頃。智積院蔵。
他にも数作品ありますが、この二枚が有名。
どれもこれも国宝です。
地方絵師、中央へ。
長谷川等伯は、1539年、能戸国七尾 ( 現在の石川県七尾市 ) の武士の家に生まれ、幼少期に染物屋の養子になり、絵を学びます。
仏画を多く制作していて、地方絵師として結構人気があったみたいですね。
華やかな色彩の作品が多く、いつか見てみたいです。
30歳過ぎてから上洛。今だと別に遅くない気もしますが、当時平均寿命40〜50歳じゃ。。。
ご両親が亡くなったからということみたいですけど、亡くなってなかったら七尾に残ってたってことなんでしょうか?
最後に一花咲かせるぜっ!
ってことだったのか、今となっては等伯にしかわからない。。。
小さな息子を連れて、当時画壇を仕切る狩野派の門を叩きます。
その後空白の17年。何されてたのか気になるところです。
狩野派と対立
狩野派は、当時画壇に君臨していて、織田信長や豊臣秀吉のお気に入りの狩野永徳(等伯の4つ年下)とその一門。すんごい力あったはずなんです。
なのに地方から出てきた一人の男、等伯に仕事とられちゃいます。
永徳激怒っ!
しかも大徳寺三門の修繕計画 で障壁画を全部永徳にまかされてたはずなのに、御所内の対屋という施設に、等伯とその一門が描くという知らせを耳にします。
永徳さらに激怒っ!
「阻止しちゃえ」
ということで実力者たちの力を借りて、等伯を阻止します。
でもこの後すぐ永徳急逝してしまいます。過労死らしいです。永徳も色々大変だったんでしょうね。。。
弔い
永徳が亡くなった次の年、豊臣秀吉の息子が3歳で病死します。
その菩提を弔うために建てた祥雲寺の方丈障壁画を等伯たちが制作することになります。その後、徳川家康の時代に智積院に授けられます。
代表作の『楓図』は永徳の『檜図』に似ていて、秀吉の好きな永徳の大画方式を使用したためとか、等伯が永徳に影響されたためとか、、、
でも、私の好みとしては、才能あるライバル絵師の早逝を弔うために似せたのではないかなと。。。
妄想ですけどね。
久蔵のデビューそして。。。
久蔵のデビュー作『桜図』は、たくさんの桜の花びらを「胡粉(貝殻を砕いて作った白い絵の具)」を塗り重ねて立体的に盛り上げる当時でも難しい技法で描いています。
全て剥がれてもおかしくないのに400年たってもなお花びらが残っている箇所があるのが素晴らしい。夜照明を落として「夜桜」としても楽しめるそうです。素敵☆
背景の金色に白い花びらは華やかで繊細、桜は満開で春爛漫。
花は咲き、散り、また咲き、また散り、人々の心を癒す。
父、等伯の『楓図』のダイナミックな巨木と繊細な植物で切なさと儚さが表現されている空気感と対をなしている作品です。
等伯は息子の成長を喜んだことでしょう。
しかしこの2年後、久蔵は26歳という若さでこの世を去ってしまいます。
親子の競演
智積院は今日に至るまで数度の火災や盗難にあい、かなりの面数が減ってしまいました。
けれど、この二枚の親子作品は、今もなお会話しているようです。
あー見てみたい。